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芸術的な書と非芸術的な書
げいじゅつてきなしょとひげいじゅつてきなしょ
著者北大路 魯山人
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人書論」 中公文庫、中央公論新社
1996(平成8)年9月18日
入力者門田裕志
校正者木下聡
公開 / 更新2020-03-08 / 2020-02-21
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 いかなる書を芸術といい、いかなる書を非芸術というか。

 少しばかり日頃の一家言といったようなものをお話させていただきます。
 今日は私の考えとして文字というものも当然芸術だと思っておるのであります。それについて少し話してみたいと思います。
 いわゆる能書というのはよい美を具備しているがゆえに、生命をもって光っているものであります。従って芸術的の生命があるというものでございます。昔に溯りますと、有名な書というものは、いずれも芸術的であります。また稀には有名な書の中にも、芸術的でないものもあるのであります。そこで、そういう区別はどういうところで判断するかということになりますが、さてどういうのが芸術的であり、どういう書が芸術的でないのか、そういう点を一応知って置く必要があると思います。
 先日、日本料理研究会という会の主幹が私に向って申された話に、ある所の料理人がどういう料理が芸術的料理であって、どういう料理が芸術的生命を有しないか、芸術的料理ということは美術とどんな関係があるのか、なにを料理芸術というかを訊かれた。それについていささか卑見を述べて答弁した事でありますが、芸術というのは必ずしも美術ではなく、ただ今のような料理の場合にいってもいいのであります。芸術だといって一般に認められておりますものは書、画、詩、歌、あるいは劇、舞踊、音楽、そういうものをいずれもみな芸術といっています。それらの題目の場合には、芸術といっても習慣上得心しやすいのでありますが、これが料理だと従来からいう美術、芸術の圏外に置かれた形であるために、にわかに料理を芸術というようになって来ては、さあ……解り難くなりまして、一体全体芸術とはどこまでをいうことになるのであるかということになります。芸術というのは心術だといった方が解り易いのではないかと思うのであります。これは心の置きよう、感情熱情で出来たところのもの、それが芸術であると解してはいかがと思うのであります。元来、この「術」のつくのが問題なのでありまして、美術とか技術とかいずれも「術」がつくのでありますが、このいずれの術も精神的、入神的のものに限りまして、常識上通常の算盤に、はじききれない作用が出来るものを「術」といい、「妙」というのだと思います。常識では測れない、二一天作では割りきれない心的作用によって、千態万様に表われ来る所のものが「術」だと思うのであります。
 書の場合でも、やはり、こう書けば能書になるだろう、こうすればいい字が出来る、こう書けばいい線が出来るといって、その通りやってもそうそう容易に能書は生まれないように、人の理性が智的に働くのみでは、決して能書になるものではないのであります。かえって理性を他所にした感情点から芸術というものが現われて来るのであります。しかし、芸術が芸術家という専門家によって生まれるかと申しますと…

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