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書道習学の道
しょどうしゅうがくのみち |
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作品ID | 55048 |
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著者 | 北大路 魯山人 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「魯山人書論」 中公文庫、中央公論新社 1996(平成8)年9月18日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 木下聡 |
公開 / 更新 | 2020-06-02 / 2020-05-27 |
長さの目安 | 約 2 ページ(500字/頁で計算) |
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世間、書を説く者は多いが、それは必ず技巧的にのみ観察したものであり、かつ、外見にのみ凝視することに殆ど決定的に偏している。すなわち、書家の書がそれである。ゆえに遠い昔はいざ知らず、近代では書家の書にうまい書があった例は皆無といってよい。全く書を専門に教える習字の先生から尊ぶべき書が生まれた試しはない。この一事実の現われは誰にとっても、うかうかと書家の教えを蒙る訳にはゆかない。
書家の書というのは、なぜそんなに価値がないか。書家の習字法は、なぜそんなに偏するか。それを一言にしていうならば、書家に芸術がないからという他はないのである。ついでながら美術もないからである。近い例としては市河米庵、巻菱湖、貫名海屋、長三洲、日下部鳴鶴、巌谷一六、吉田晩稼、金井金洞、村田海石、小野鵞堂、中林梧竹、永坂石[#挿絵]等……みな芸術を解するところがないばかりでなく、美術を識らなかった。ために書道を誤認していた。従って後に遺るべき尊き書は生まれることがなかった。その中、辛うじて貫名海屋ひとりが若干実を識るのみであって、他はいずれも俗流で一時を鳴らしたに過ぎない。
習字の要訣というのは、俗書に陥らざる理解と用心が肝要である。
書に限らないが、書はすなわち、身につく所にまで進まなければならない。手につく所までは誰しも行くが、身につく所には大概至らないで終るものである。身につくというのは、稽古離れする時の出来栄えである。稽古離れということは、その先入主ともなるべき最初の心掛けが重き役目を勤める。
(昭和九年)