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書道と茶道
しょどうとさどう
著者北大路 魯山人
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人書論」 中公文庫、中央公論新社
1996(平成8)年9月18日
入力者門田裕志
校正者木下聡
公開 / 更新2020-10-27 / 2020-09-28
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 今日は茶の方の話を少し申し上げたいと思うのですが……、なぜ茶の話を申しますかといえば、それはいうまでもなく茶人の書がうまいからだということに帰するのであります。みなさんご承知の通り、ご家庭でもみなさんがお習いでしょうし、また世間で茶道とか、茶人だとかいうことを屡々いうことですが、私が遺憾に思うのは、なんか変なことがある場合に、あれは茶人だからね、というようなことをいう。それを私は遺憾に思う。あれは元来茶ということが分っていていわれるのか、それとも世間でみないっているから雷同していうのか、その辺を遺憾に思っている。そこで、それならその人が訳もなくそういっているのには、その人にそういわせるような因果な原因があると思うのです。現在、眼の当り見る所では、茶人というものが茶道を学ばずに、点茶技術のみに浸ったから、それでそう誤認されるのだと私は思うのです。茶道ということは、点茶というのとは根本的に違いまして、点茶は茶道の中の一部分である。それで茶道というものが、もし一つの立派な建築であると致しますならば、点茶はその中のなにかの一つです。木を削るとか、地盤を固めるとかいうような、茶道を知る上における契機になる力を持っているものだと思うのであります。それがいつの間にか茶道という高尚な趣味的学問は、現代人の頭ではもう堪えられなくなって、ひたすら茶道というものを冒涜して、そうして茶を点てる点茶の事ばかり喧しくいうのであります。私の見ている茶道というのは、茶礼式というような言葉なんかを取ってしまいまして、茶人という非常な趣味家で、その趣味というのが、主として美的趣味であります。それでおよそ美的趣味に関する事ならば、なんでも、もう至れり尽せりというふうにまで至ったのが茶道という学校だと思うのであります。それに携わっている人というのは、えらいのがうんとおりまして、茶道に携わった人というものは、宜い加減の薄っぺらな人じゃない、実に一世を支配しているような力のある立派な人がみなやっている。その事実を見ただけでも、茶道というものを軽々に見ちゃいかぬと思うのです。
 昔の茶人というのは、例えば、ここに庭があるとします。と、ここがよいとか、悪いとか、どうすればよいということをちゃんと知っている。庭のことといえば、樹木が太過ぎるとか、この石がよいとか、悪いとか、大き過ぎるとか、小さ過ぎるとか、調和がどうだとか、庭園なども、非常に頭がよく働いて実に審美的のものを造る、そういう力を持っている。いうまでもなく、関西の方に行きますと、みなさんご承知の立派な庭園が沢山あります。例えば、桂離宮を遠州が拵えたとか、それから聚楽園も遠州が拵えた、二条城の内に武家好みの石をいっぱい立てて、形変りの庭を遠州が拵えた。その他、遠州以外の人の造った庭というのが沢山ありますが、おそらく茶道に関係のなかったものはない。ま…

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