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書道を誤らせる書道奨励会
しょどうをあやまらせるしょどうしょうれいかい
作品ID55050
著者北大路 魯山人
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人書論」 中公文庫、中央公論新社
1996(平成8)年9月18日
入力者門田裕志
校正者木下聡
公開 / 更新2020-04-20 / 2020-03-28
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 書道展覧会など殆ど全部がといって差支えない今の書家風の書、すなわち手先の器用で作り上げる「書」形態は、筆調は体裁上、一寸見に本当の能書と変るところなきものかに見える。が……実は能書のイミテーションだ。今少し手厳しくいえば能書の偽造だ。贋造紙幣製作と同義を持つものだ。例えば真の能書たらんには東に向うべきが当然であるべきを、西方に向って筆心を進めている、これが書家の書だ。最初からてんで見当が違っている。天の星を買おうとする愚者に似たものだ。手先の器用で造られる字はこれなのだ。近頃書道の勃興とともに上野あたりで催される書道奨励会などは、目的としてその偽造能書を作らんとする考えでないこと固よりいうまでもないが、書の生命に心得ある者のないため?偽造能書を生み出すべくこれつとめている観ある事を如何ともなし難い。受賞者はやがて成功の暁、デパートに調法な筆持ちとして雇用される以上の何者でもない。それが不足でないというならば万事休するまでではあるが、さに非ざる夢がありとすれば、実に気の毒千万な訳である。
 一六、鳴鶴はもちろんのこと、三洲、梧竹、いずれも書道の根本を弁えそこなった結果、方向を誤って、書は手先の能くする所と合点し、書道に筆ばかりを擂り減らしたものだ。その結果として徒らに反古の山を作った。それらの歿後、その墨蹟が何の価値なきのみならず、あさましい醜体を縁日の店頭にゼロを以て曝すに至っては、将に後進をして否応なしに悟らしめるものがある次第である。以上、書家輩の誤った習字学を挙げて前車の覆りたる光景に譬えたりとて、誰か識者のあって異議挟む者があろう。風采、容貌のみの仕掛けをととのえて、児女の目を眩ますものは芝居である。辺幅を飾るに腐心常なき者は、人格的内容のないやくざ者と、昔から相場は決っている。
 今、書道会に書を競う者、見るところ皆辺幅者流に非ざるはない。かくて、デパートに調法な筆持ちと成り了る。嗟呼。しかしながら、かように、書道を皆が皆誤認する所以のものは、畢竟、偉大な墨蹟に表われたる能書の価値を直観する観賞力を欠くがためにして、知らざるがゆえにこのような振舞をあえてするものと見る外はないのである。
 元来、書道を極めんとする嗜みは、人格の完成を期せんと希望する念願と、なんら変わるところあってはならないのである。
 書と人格は不可分であることを知らねばならぬ。ゆえに書を学ぶ一事は、直ちに自己の人格を達成するに役立つものであらねばならないはずである。書の善悪美醜は作者の人格の反映であって、技術上の巧拙に表われる美醜は、単に衣裳の好し悪しに過ぎないと知らねばならぬ。由来、書家の書は、衣裳調整の努力にのみ腐心するものであって、肝腎衣裳を着ける中身(人格)を等閑している。等閑しないまでも、それは及びもつかぬこと、あるいは別事ででもあるかの如く関心から遠ざかっているのが…

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