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美術芸術としての生命の書道
びじゅつげいじゅつとしてのせいめいのしょどう
作品ID55051
著者北大路 魯山人
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人書論」 中公文庫、中央公論新社
1996(平成8)年9月18日
入力者門田裕志
校正者木下聡
公開 / 更新2020-09-05 / 2020-08-28
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 書のこと、すなわち字のうまいまずいを最も明白に率直に説明しようとするときは、大体次のような甲乙二つの色別が出来るかと思う。甲はいわゆる書家の書というものであって、現在でいえば、よくある書道展覧会などに出陳されているような物を指すことが出来る。これには看板、版下など書く人、あらゆる習字の先生などを含むものである。要するに手本の形態を模倣する筆技を楽しみとし、筆技で渡世する職業書家を指してよい。仮りに、明治の過去に溯って著名な一流書家を例に挙げて見ると、日下部鳴鶴、巌谷一六、中林梧竹、小野鵞堂などがそれに当るといえよう。いずれも素人眼にはうまく見えるようだが、実はみな拵えものであって、そこには生命が含まれてない生きた屍といえよう。
 次に乙はというと、以上の書家といったように技能本位、形式的、いわゆる書法本意に立つのではなく、かつ、それくらいの興味に満足しているという低級な悦びにひたっているものでもなく、形よりも精神、型よりも個性、拵えものの美しさよりも飾らぬ美しさ、また火の玉のように熾んに燃え立って、作者の魂魄を観る者の骨身に伝えるような気魄を示す書、あるいは静かに古池の水を想わす静寂の秘密そのもののような幽書、書者の高き全人格が映って、後世までその人を眼の辺りに見られるが如き生き抜いた活書、而して美的含有量の豊かな何人も一見優雅を感ぜずにはいられないまでの美書、いずれにしても、一目その魅力に感動せざるを得ないまでの書、従って書者は、ただ人ではないであろうと想わすに足るまで十分に個性を生かしているところの能書、等々列挙すれば、まことに次々と形容詞は生まれ出て来るが、しかし、大体は以上で説明の大意はつきていると思う。ゆえに由来見識高き者にあっては、必ず後例に従わんとする傾向のあるのは、けだし当然のことである。さればこそ、古来有名な能書と称するものには御宸翰はしばらく措き、高僧の墨蹟が最も多きをしめ、一国一城の君主という人々にも、さすがにすこぶるそれが多い。著名な学者にもその例が多々見られ、いずれもみな揆を一にしているわけである。これらは立場こそ異なれ、みな生命を打込まんとする心の嗜みから学び得たものであろう。昔の祐筆のように、初めから書を職業とするため、稽古を積んだというようなものでないことはいうまでもない。つまり、一個の人間の命の書として自己の人間格を正直に表現し、それを鏡に映じた自己の相と見て、不善あらば善に糾さんための反省を重ね、個性をよりよく磨く機関とみなし、謙虚営々習得したものに相違ない。書道は是非そうあらねばならないはずである。今の人の中にも、以上の見識をもって、書道を習得せんと望んで止まざる人は多々いると私は観ている。
 しかし、徳川初期から(良寛を除く)明治にかけては、不幸にもその実例を示すところのものが段々と減少し、芸術上、ものの道理を語る指…

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