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覚々斎原叟の書
かくかくさいげんそうのしょ
作品ID55057
著者北大路 魯山人
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人書論」 中公文庫、中央公論社
1996(平成8)年9月18日
入力者門田裕志
校正者きゅうり
公開 / 更新2019-04-19 / 2019-03-29
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 これは旨い字か、拙い字か、おとなか、子どもか、手の字か、心の字か、はた人格の賜物か、それとも、学者の書か、高僧の筆か、あるいは書家の字か……。書家なら、もっと字をうまくまとめるはず、第一こんな風格の高い字は書けない。学者の字としては、並々尋常の学者では書けない自由さがある。坊さんの筆としては、いわゆる坊主臭さがない。俳人にしては、たいてい、この真面目さを見ることはできない。
 ほかでもない、これこそ、われらの誇る日本人の見識をもって生まれ出でたる茶道茶儀、この道の悟りに因って、世に表われた書である。旨い字か、否、拙い字か、否、ただ、よい字である。よい字というものは、よい人格が生む以外、ほかに生んでくれる母体はない。
 人格の善悪上下は、大部分が生まれつきであり、天の成しあずかるところであるが、善智を心がける教養も決して軽く見ることはできない。
 世に能書はたくさんあっても、善書は稀にしか見当らない。能書はややもすると、技術を得意とする悪弊に陥り、由来価値を認めがたき、書家の書に成りたがるものである。善書は質が善を備えておるから、どう間違っても善書は善書であって、低劣の醜悪とはなんら関係がない。
 今は茶道の中、点茶の形式が辛うじてその面影を残しておるが、肝腎かなめの善知識を得るところの根源とも申すべきまごころが、ほとんど跡を絶ってしまった。真剣が影を薄くしたこの書は、必ずしも、茶家一流格の墨蹟ではないが、今の世に、せめてこれくらいの字ができる人格者が茶道界に現われると、茶儀に対する誤解もなくなり、国粋というようなことも鮮明になり、殊に審美上のことなどは、如何に有益に進展するかを思わずにはいられない。
 とにかく、茶道に入ると、入ること深ければ深いに随い、ものの見方が精密になる。従って、表面のみに陶酔するような杜撰から救われるようだ。この筆者は茶道第一の名家、千利休を相承する表千家三代覚々斎原叟である。
 今を距る二百二年前、享保十五年六月二十五日、五十三歳で永眠している。この墨蹟を按ずるに、おそらく晩年の作であると思われる。
(昭和六年)



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