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春屋の書について
しゅんおくのしょについて
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人書論」 中公文庫、中央公論社
1996(平成8)年9月18日
入力者門田裕志
校正者きゅうり
公開 / 更新2019-02-09 / 2019-01-29
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より


 春屋は大徳寺の名僧で、慶長十六年示寂している。
 高僧の墨蹟には能書が多い。儒者の書には存外能書がない。これは仏教と儒教の影響する現象である。同じ高僧でも鎌倉以上に溯っては、いよいよ能書が多い。宗園春屋は慶長であるから、ぼつぼつ高僧の影を没する時期だ。春屋のような天真爛漫な、しかも見識のある書を書くものは、それ以後江月欠伸子、深草の元政、ずっとおくれて良寛があるくらいのものであろう。
 僧侶の書は、宗教から悟りを得た産物ではあるが、それでも僧侶の臭さがあり、型がある。この臭さと型のあるものは、未だ悟り切らざるものといっていい。その中に、前記の名僧たちが悟った、いわゆる臭くない能書を遺していることは、充分注視しなければならない。
 宜なる哉。已にそれらの能書は、多くある高僧墨蹟の中から特に喧ましい存在となっている。しかるにそれらの書が、今の書道界に果して喧ましい存在となっているであろうか。遺憾にも世上のいわゆる近代書家なる者は、これらの書に対しては殆ど認識不足であるようだ。いやいや彼等は認識しているつもりであるかも知れない。
“拙い書だ”と。
“どうしてこんな書が貴ばれているのだろう”と。
“世上の認識が誤っているのではないか”と。
“全く世上が筆者の高名に惑うて拙い書を、うまい書でもあるかの如く誤っているんだ”と。
 いうところの書家なる人々は、以上のような見方をしてはいないだろうか。書家は書を拵えて旨い字を書いて能事終るとしている観がある。ところが僧には限らないが、およそ見識ある者は、技術上の能事のみには没頭していない。いわば、上手下手を手腕の外に超越している。自分の気格を以て、すべてを終始している。皮肉なことに、この下手を屈託しないほどの見識ある人間に限って、いつも能書を遺している。
 それにひきかえ、下手を屈託して、上手の一途を欲する書家たちは、かえってなんの価値も遺すところがない。あるのはただ職工的価値のみ。これはとりもなおさず、書道観に悟りの眼が開いていないからだ。そこへ行くと俗僧たちは別として、僧侶は宗教によって芸術に悟るところがある。さればこそ、高僧の書は尊く、永く遺るのだ。
 私はその意味において、鎌倉以前は暫く置き、慶長時代から以後において、春屋が最も好き、江月にいたく肝銘する。深草の元政にも頭を下げる。良寛和尚は固より敬慕して止まない。
 私は書道に対して、以上のような見方をしている一人である。
(昭和九年)



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