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人と書相
ひととしょそう
作品ID55064
著者北大路 魯山人
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人書論」 中公文庫、中央公論社
1996(平成8)年9月18日
入力者門田裕志
校正者きゅうり
公開 / 更新2019-05-27 / 2019-04-26
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 書相は、よくその人の価値を表現する。端的にいって、いかにしたら書相によって人の価値を見分けるか?
 人品良き者は品良き書を、下品なる者は下等なる書を、強き個性を有する者は、強靭なる書を、個性軟弱なる者は、その線極めて脆弱にて、筆力剛健ではない。胆力備わった者は、自ずから天衣無縫といった大型の筆跡を残すことは、幾多の歴史的事実が示すところである。また、心小にして胆大なる者は、余すところなく用意周到、かつ、強靭な書相を示している。
 世に俗物として遇せられ、俗悪なる趣味に生きる者がある。明治以降にその俗書を求める時、俗悪とはいわないまでも西郷隆盛の如きは、優雅なる書とは認め難い。ほぼ似たような筆跡ではあるが、山岡鉄舟の書は俗悪に数えられる。頭山満もスケールは堂々たるものであるが、俗悪の部類であって、その譏りは免れまい。
 大人物なるが如くして、決して大人物にあらざることを書相に表わしおるものは、西園寺公であり、岩倉公である。西園寺は風流優雅を特色とするが、岩倉には優雅も風流も認められない。西園寺公は一先ず良書であり、能書であるが、スケールは小さい。大胆とか放胆とかいう偉なるものはない。この点、副島種臣に如く者は他に一人もない。徳川期にもその跡なしといい切れるであろう。芸術的であり、美術的であり、自ずからなる品位が備わっている。副島伯に学んだ如き者に中林梧竹があるが、これは単なる書家と称する職業人であって、偉大なる人物という内容を持たない一種の芸能人であって、共に論ずべきものではない。われわれが常々蔑視するものに、書能を職業とする書家というものがあって、それの仲間である。すなわち、内容に欠けているために、その価値は問題にならないのである。

 昔は苟も政治を論ずるほどの者は、いずれも書道に関心をもち、その多数は書をよくし、書の拙劣をもって深く恥ずるところがあった。しかるに、現今は世の推移と共に、その趣きは全く地を払い、一流人と雖も書をもって名を成す者は、彼の中国に皆目観るを得ず、日本においても書道を等閑に付するの風潮があり、真に慨歎に堪えざるところ、たまたま元の総理吉田茂氏あって、聊か意を強くするものがある。近作としては緒方竹虎氏の墓の如きを良しとなす。現今何人といえども、これに匹敵する書を見ず。あるいは政治家中最後の一人たるやも知れず、現今の政治家で、かかる人の存するは吾人すこぶる意を強くする次第なり。

 一流人物の書はともかく精彩があって生きている。二流人物となると、半死半生である。三流人物すべてに取る所はなく、最早問題にはならない。これをもってしても、書は人物次第であり、人物が出来ていなくては注目に価する書にはならない。
(昭和三十二年)



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