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窯を築いて知り得たこと
かまをきずいてしりえたこと |
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作品ID | 55071 |
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著者 | 北大路 魯山人 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「魯山人陶説」 中公文庫、中央公論社 1992(平成4)年5月10日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 雪森 |
公開 / 更新 | 2014-11-16 / 2014-10-13 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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もしそれ技術的の方面、製作上の道程などを子細に考えるならば、それは殆ど数知れぬまでに未知の世界を知ったと言うべきである。
しかし、左様なことは余りにも専門的に渉る。で、ここで一般的の話として持出すことはむしろ控えるが至当であるかも知れない。ゆえにそれらは略して、その他の所感を述べることにする。
個人作家の権威――先ず第一に自作と銘を打って出す個人作品の権威についてであるが、それは次のような条件を具えなければその資格はないと思う。先ず、胎土の仕事から、最後の焼上げを了えて完器となるまでの仕事、例えば轆轤の仕事、絵付けの仕事、彫刻を施す仕事、釉薬を施す仕事、窯入れの仕事、窯の火加減を見る仕事、これでよいとして火を止める最後の決断、それまでを一人で成し果すのでなくば、これを自作とは言い難いということを、私はしかと知り、且つ信ずるに至ったのであった。
世上見る所、よく人を傭い、窯を築き、以て職工に自己好みなるものを作らせ、それを以て得たりとするむきもあるが、かくの如くして出来上がったものは、あわれにも密かに自己の好みなるもの、思いつきなるものが混入していると言うに過ぎぬ。この遣り方で出来たものは、無精神なる形骸のみを巧みに真似るも、当然の帰結として作品の上になんらかの魅力もあろうはずがない。言い換えれば、精神の力を欠いた、言わば名器の外装を凝らしているところの、下劣な悪器たるに終っているまでである。ゆえに苟くも愛陶家たる以上、また、自家に窯を築く個人作家たる以上は、何一つすら他人に任せることなく、製作の悉くを自分で作るべきが当然だと思う。
第二には釉薬の製法である。第一が技術上、事を他人に任せてはならぬと同様、これもまた人に任せてはならぬ。釉薬の色調に自己の色彩を発揮せんとするには、その釉薬は自己の調合になる塩梅によるの他はない。
次いで、第三は土もまた自分で吟味するを要する。その場合、最も注意すべきは、土はこれを他の土と混合してはいけないという一事である。例えば織部の土と信楽の土とを混ぜて一つの器物を作る如きは、これを切に避くる心掛けがなくてはならぬ。
今の陶人の間には、ままこういうことが行なわれているが、混じた土にはなんらかの便利はあっても、土の味わいは殺されて生気に乏しい。その土地土地で生まれたままの土の単味が、一番生き生きしてその調子を高くすることは否み難い。ゆえに古陶に趣味を持ち、古人の作に感銘を受けるほどの者は、これを作らんとするに当り、この点の注意を軽率にしてはならぬ。
言い換えれば織部風のものを作らんとするには、信楽、唐津といった土を代用してはならぬ。織部には瀬戸の土、信楽には信楽の土が良く、もし織部に信楽の土を用いれば、決して織部の良き感じが出るものではない。
ひとり土のみならず、絵付けに用いる鉄分も織部に用いる丹礬も、すべての材…