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乾山の陶器
けんざんのとうき
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人陶説」 中公文庫、中央公論新社
1992(平成4)年5月10日
入力者門田裕志
校正者木下聡
公開 / 更新2018-07-22 / 2018-06-27
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 一口に乾山と言えば、乾山の陶器を想い出すのが世間の通例である。乾山について絵画の天才を想起する者は、大部分玄人筋であると言える。能書乾山を識り、乾山の能書を叫ぶものは通の通である。
 乾山が光琳の弟であることは、乾山の優れた資質を知らぬ者に、なにかしらん安心を与えている。
 確かに光琳の方が乾山より有名である。のみならず、光琳は芸術的価値から言っても、固より乾山に優れていること、論ずるまでもないように考えられている。要するに、乾山の存在は光琳に比して、甚だ淋しい。
 食器に絵を描くことに興味を持った乾山は、掛物の絵を描く光琳と比べて最初から割の悪い立場だった。しかし、今日では乾山もいつとなしに識者間には、しかと認められて、芸術上決して兄の光琳に劣るものとされていないが、それでも、一般からは光琳の方が、お馴染が深くて偉いと考えられている。
 私たちは頼山陽の書とその弟頼三樹の書を観るとき、いつも技術的には山陽の長所を認めはするが、人間味の表現に立ち至っては、三樹を採って尊しとするのが常だ。乾山の場合に於ても、これと同じようなことが言える。つまり、技巧的な玄人らしい腕前を持つ点において、兄の光琳を巨匠として感じはするが、光琳はどこまでも絵描きでござい、絵を描くのが商売であると作品の上に説明して、気品を漂わしつつ匠気を横溢させている(固より下品な匠気ではないが)。弟の乾山は、その表現に於て、絵を描いても、字を書いても、玄人らしき振舞いはなく、どこまでも素人くさい稚鈍さを失っていない。言わば垢抜けのしたような、しないような、至ったような至らぬような特徴を有するのが乾山である。
 それだけに人間味があって、匠気離れがあって、道楽画人を思わせるものが多い。光琳にはいたずらや戯れはないが、乾山はその時々の気分次第に任せて、いたずらもやれば、戯れてもみる飄逸さを作品の上に見せている。
 光琳は宗達に遠く、乾山は宗達に近い。宗達や乾山は艶の中に多量の寂を保有しているが、光琳はどこまでも華麗に了っている。私だけの考えを申すなら、乾山はおそらくものぐさな男で、ずいぶん気紛れ屋さんであったろう。そこがまた光琳よりは芸術的なのであろう。
 宗達も光琳もかなり精力絶倫であったことを思わせるだけの作品量、傑作、力作を遺しているが、乾山はそうでない。
 乾山はやきもの、すなわち陶器作者として有名であるが、その実、やきもの師のように土の仕事、泥の仕事はみずから手を下していないらしいのである。これは私の独断ではあるが、私は乾山を陶人として扱うことに賛成しがたい。なんとなれば、彼の作陶は意匠上の思いつき、あるいはそれに伴う絵や書はみずから手を下して在来陶器の意表に出で、乾山の前に乾山なしを誇ってよいのであるが、陶器として、肝心の土の仕事、即ち、器体の製作を、名もなき職工に命じ作らせていた矛盾が…

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