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古九谷観
こくたにかん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人陶説」 中公文庫、中央公論新社
1992(平成4)年5月10日
入力者門田裕志
校正者木下聡
公開 / 更新2018-12-01 / 2018-11-24
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 大聖寺の臣後藤才次郎なるもの徳川の万治年間、九州有田の製陶秘奥を探り、帰来所謂古九谷焼が創まる。あるいは中国に渡って古赤絵付けの法を得た。こんないきさつを無上に詮議だてして興がっている人もあるが、吾人の如きは、そんなことはどうだっていいじゃないかという方の組で、そんな閑には直ちにモノを直視する。実体そのものの価値を観てそれに感じ入る。また、それに具わった美に心を打たれて心身を浄める等々、これらの事柄を大切に心得る方の愛陶組である。ゆえに、お国贔屓は全然ない。即ち是を是とする。従って文献などは刺身のツマぐらいにしか心得ていない。
 しかし、こんな意見は吾人の一人よがりの意見にすぎないから、これ以上は遠慮するとして、本論、即ち古九谷が有する美の価値に言を移してみよう。
 そこで吾人が常に思っている所をさらけ出して見ると、伊万里とか、有田とか、古九谷とかは製陶の手法こそ相酷似しているものの、実体が有する美的要素に於ては、前者と後者と価値を黒白の如く全然別にしていると断言したいのである。有田にも伊万里にも結構な出来が有るには有るが、悲しいことにそれは幾何あっても職人の仕事としての成果である。職工美術としての価値以上はなんとしても、見出し難いのである。言い換えれば、実に非芸術的であって、無精神な、単なる工芸美術なのである。ゆえに美的鑑賞の低級な欧米人の好みにはうまく当てはまっても、日本の眼のある好者には、これを尊べと言われても甚だ迷惑物なのである。
 それに引き換え古九谷の方は根本的にものが違うと言ってよい。それでもやはりその出来不出来によっては九谷ながらも随分段違いがあって、皆が皆芸術的とは申されないが、本質に於ては実に断然芸術的なのである。真にこの事こそ不思議な現象だと常に思っている。伊万里、有田なるものはいかに動いても、その結果の立派さが職工的にのみ成就し、遺憾なことに、深みのない、味のない、余韻のない、干からびたものにしか過ぎない。なおも言うと、それと反対に九谷となると、初めからガアーンと芸術的に吾人の眼に迫って来る。同時に真に心からの欣びが胸から湧き出ずるのである。この事、同じ時代、同じ日本の仕事であるに拘らず、伊万里、有田は単なる職人芸に止まり、加賀の九谷は、かくも芸術的であるとは、実に何としても不思議である。
 ここに於て吾人は伊万里、有田の焼物を尊重するわけに行かないは勿論、固より愛玩するわけにはいかない。これを実用に供する事さえ拒否したいのである。それが事一度古九谷となると、その優秀作に出会わしては借金してもという気持が振い起こり、毎度その事で買物の前に悩まされる。全く古九谷は恐ろしく芸術的だ。男性的であり、豪快であり、雅もまた頗る雅であって、世界中の焼物の前に断然優越を感ずるものである。彼の万暦赤絵などから見ても有情であり、人間味に富んだ趣きのあ…

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