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余が近業として陶磁器製作を試みる所以
よがきんぎょうとしてとうじきせいさくをこころみるゆえん
著者北大路 魯山人
文字遣い新字旧仮名
底本 「魯山人陶説」 中公文庫、中央公論社
1992(平成4)年5月10日
入力者門田裕志
校正者木下聡
公開 / 更新2020-07-23 / 2020-06-27
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より


 古来貴重視せらるる陶磁器は東洋に於て特に発達を遂げ西邦に及ぼす所ありたるは言ふまでも無い。而して早く支那に於て発明する処ありたるも論無き処であるが、清朝に下つては其作品に芸術的生命を有するものの影を没するに至つた。明以前に遡るに及んで其作品に芸術的生命を有するもの太だ尠からざるを見る次第である。朝鮮に於ては高麗である。我が日本に於ても瀬戸の藤四郎、九谷の才次郎等の時代に於ては芸術として取扱ふに足る作品を生じて余りあるのであるが、以後に於ては屈指の名匠を除く以外大体見るべきものは鮮少である。現代陶磁器に至つては歎息すべき状態にあつて芸術的生命あるものの絶無であることを叫ばざるを得ない。纔かに二、三の有志により芸術的理解を以て研究の続けられつつある事実を見るも、表るる処の作品は未完成であり純正芸術の心境に触るる処無き有様であつて、吾人をして感歎せしむるに足るものは生れて居ない。其余は事務的作品の産出を数ふるのみであつて些々たる工芸美の発揚に余念なきを見るのみである。由来陶磁器製作は識見高き人物自らが其の製作に没頭し泥土を取扱ひたる例は頗る僅少であつて、概してつまらない人間の製作為す所となつて居るのである。故に偶々光悦の如き木米の如き識見を以て之に臨む者あるに於ては其作品は直ちに天下の至宝となつて重きを成す事実を存するのである。有識の徒豈道に与からざらんやである。要するに一見識を以て斯界に臨まむか、将に天下を把握為さんこと実に易々たるものであることを言明して憚らない。甚だ僭越なる申分であるが余の如き薄識鈍才を以て斯道に係るすら現代に於ては無人境を行くが如き感無きを得ない。斯くの如く斯界無人の有様を目撃為すに及んでは東洋陶磁名誉の為めに悲しすぎるを得ない訳である。余の陶磁器製作は元より以て生れたる趣味に発足して居ることは言ふまでも無き所なれども、一面に於ては斯くの如き現今の欠陥に刺戟せらるる処ありて一層余の奮起を促すもののありたるは疑ふべくもない。余が余の窯場の傍らに陶磁器参考館を設け多数聚集の古陶磁器を一目瞭然に陳列なしたるが如きは即ち温故知新の意を以て窯芸に精進せむことを欲する微衷に外ならない。而してこの参考館は一般同好の為めにも便せんことを思ひ縦覧自由を欲し、越権を顧みずこれを開放せり。乍併元来一寒書生の企つる処、その貧弱不備なる点に至りては汗顔に堪へない次第であるが、若し夫れ聊かたりとも初心に益するところあらば余の望みは足ると云ふ。
(昭和二年 原文のまま)



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