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音楽と世態
おんがくとせたい |
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作品ID | 55628 |
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著者 | 中原 中也 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店 2003(平成15)年11月25日 |
初出 | 「フィルハーモニー」1930(昭和5)年6月号 |
入力者 | 村松洋一 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2014-10-17 / 2014-09-15 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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近頃は音楽界は盛んであるやうだ。演奏方面は勿論として、作曲家も没々出て来る。――つまり音楽界は盛んであるのだ。そこで音楽は盛んであるか如何。
そこらのお坊つちやんが、――まあ、お坊つちやんだつて、貧乏人だつて、貧乏人だつてお坊つちやんだつてそんなことが此処で問題ではないのだが、――少しばかりお玉杓子を並べることを覚えようと、大いに沢山お玉杓子を並べることを覚えようと、或は、ハーモニーが新しからうと古からうと、オーケストレーションが器用に出来ようと高速な思想の持主であらうとあるまいと、ジャズだらうと俗謡だらうとソナタだらうとファンテジイだらうと、――問題ではない。
私に問題なのは、要するに彼が如何に音楽を要求したかが問題であつて、言ひ換れば、彼れの魂が如何に音楽に於いて満足されたかが問題なのである。
だいたい芸術といふ、最も悲劇的な仕事は最も喜劇的に見られ易いならはしである。山賊仲間に聖者のゐたためしは先づないが、修道院の中には天使から悪魔までがずらりとゐる。面白いことで結構なことで、それが決定的に見た場合の世の中といふもので、この儘世界が化石してしまふのなら、せめて活人画くらゐにはなつてくれるのなら、いふがものはないのだが、化石にもならないし、時計は依然廻つてゐるし、その間に様々な椿事は出来してゐるし、其処に幸福と不幸とが湧き返り立ち返つてゐるからには、偶には良心とかつて元気な小僧もゴソゴソしだす。
何しろ近頃の世の中は、――尠くとも知識階級は、まるで肚が坐つてゐない。何のことはない妄想家流であつて、ジャズだつてオネガだつてアッターベルヒだつてラヴェルだつてシトラウスだつてマーラーだつて、妄想家流――といつて妥当でなければ幻想家流である。彼等は、自分が自分の主人たり得てはゐない。神経的、或は潔癖精神的に幻想のげにも脆い臍の緒を掴へることによつて、心境の一断想を歌ふばかりである。それを聴いて感じられるものは、はや気分でさへない、云つてみれば気分の暈縁くらゐな所かもしれない。
しかしともかく、それらの音楽によつて多くの人々が、好い気持にされてゐるのだから文句はないのだが、然しもと/\気分の暈縁なぞといふオボコイものを聴いて喜んでゐる連中が取引のこととなると俄然骨ばつてくるし、而も楽々骨ばれるやうに前以て備へてゐるので、「音楽と世態」なぞと今並べてみたくなるのである。それにしてからが昔々から掛引のうまい大作曲家といふのは見当らないし、特別なのを除いて商売者は坊間音楽に※[#「さんずい+垂」、U+6DB6、32-14]涎垂らしてゐたのであるから、今更驚いてみせるにも当らないが、然し近頃ヂァズといふ素晴らしい「床上手」で、その余はまるでアンポンタンな女が民間と同時に高尚な方面でも大いに意義ありとされたり、専門家――ラヴェルにしろシトラウスにしろ、もうち…