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感情喪失時代
かんじょうそうしつじだい
作品ID55730
著者中原 中也
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
入力者村松洋一
校正者noriko saito
公開 / 更新2015-10-10 / 2015-09-01
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一 感情喪失時代

 現代は、「不安の時代」だと云はれる。之に対して或人は理智の欠乏がその原因だといひ、或人は共通信条の不在を嘆いてゐる。みんなそれぞれ理由のある所であらうが、原因はいざ知らず、見渡した所感情が喪失されてある状態であること明らかであるやうである。
 感情といふ語の内容も色々であらうが、「独り居て怡しむ」底の感情、対人的に発露するに非ざる、そこはかとなき欣怡の情である。之の欠乏する限り、対人せる場合に現はれる感情も、飢えた獣の感情に似る他はないのではあるまいか。
 又、之の欠乏する限り、判断といふものもひどく相対的にしか行はれないのではあるまいか。
 それはさて、人が皆その幼時に、欣怡の情を有することは確かである。ではそれは何時如何様にして喪失されていつたのであらうか。答へは簡単だ、野望のせゐだ。事そのもの、物そのものを、知る間もあらせずその事その物の利用を思つた心のせゐだ。

 とまれ感情なくしては、現代が不安の時代であるとしてからが、その不安さへも不安と感じられないであらうやうなものではないか。

 さて時代の不安の原因が果して理智の欠乏だとすれば、人は直ちに理智の涵養に取掛かればよいのだし、又共通信条の不在がその原因なればそれの探究に取掛かればよい。所でもし感情喪失が原因なれば、人は先づ退いて心身を休めるの必要があるのであらう点で、前二者とは趣を異にするのである。前二者が注射や服薬ならば、之は神経衰弱や軽微な肋膜の療養に似て、呑気にブラブラすることを要請してゐるのである。

 呑気にブラブラすることか、あゝそれならば楽だよと、云はれる人が多ければ、私なぞが亦何をか云はんやである。然るに退くことは、却々以て性格の力を要することは亦事実であるやうである。
 世に、真実と、虚飾との二つがあることは先刻知れ渡つてゐる。然るに真実を守り、虚飾に関与せざらんはまた却々大した芸当である。第一、事々に、真実と虚飾とを篩ひ分ける感情基底を失はずしてあることが既に問題なのである。同様に、呑気にブラブラすることも容易とは見えぬのである。

 試みに、呑気にブラブラしてみて下され。さうするうちには、今まで見えなかつたものが見えて来、感じられなかつたことが感じられて来るかも知れぬのだ。すれば、貴下の生活も次第に統整のしやうがあり始めようといふもの。

 一般生活はいざ知らず、由来芸術とは、芸術家自身の統一夥多がなさしめるわざではないか。統一への途上に於て小主観的作品の物されることが多ければこそ、問題は錯雑を極め、作品よりも批評の方に真実の見られ易いが如き事態ともなつてゐるのではあるまいか。

 感情基底稀薄にして、かうもああもあつたものではないのである。
 して、感情基底の確立のためには、退いて呑気にブラブラすること勘要だらうと愚考するのである。

二 帰省者田舎…

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