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![]() さんとうしゃのなか(スケッチ) |
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作品ID | 55774 |
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著者 | 中原 中也 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店 2003(平成15)年11月25日 |
入力者 | 村松洋一 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2018-01-30 / 2018-04-25 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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疲れてゐるのに眠られぬ。車室の中は満員である。棚の上もトランクや土産物で一杯である。
僕の連れの男は僕の丁度直ぐ前の席に、もう先刻から眠つてゐる。汽車が東京を出発してから、二タ言三言言ひかはしたばかりである此の男は、節野と云つて、外国語学校の夜学で知合ひになつた男である。午後の五時から七時までのその夜学では、生徒は勤め人かそれとも他の学校に席を有してゐるものであり、如何にもみんな一寸顔を出してゐるといつた気持で来てをり、二年間一緒の教室にゐて、一度も話を交はさずに終る男もあるのである。僕と節野とは、教室で可なり口をきき合つたのであり、一緒に酒場なぞにも行つた男であるが、それでも彼の昼間通つてゐる日本大学の同級生が其の場に来合せたりすると、その方が主になるのである。無論僕は、愉快な男といふのでもないから、さうなるのでもあるけれど、なんとなくその夜学といふのは、妙に互ひにそはそはした気持でゐる所であり、其処での知合ひだといふことが僕達を打解けさせない大きい理由のやうに思はれるのであつた。僕達は今卒業して、二人ともそれぞれの郷里に帰つてゆく。随分愛想のいいその男が、汽車に乗るや間もなく眠つてしまつたことは、なんとなくその夜学二年間の総計のやうな気がされて淋しいやうでないこともない。
汽車が箱根を越える頃、降りやんでゐた雨は再び降り出して来て、窓硝子の上に斜めの線を引きはじめた。乗客の三分の二はもう眠りに就いてゐる。手拭を顔に掛けたり、外套をかぶつたりしてゐるそのいぎたない風景の上に、電燈は明々と明つて、幾つもの仕切板の角々のあのラックの光沢に反射してゐる。
窓の外は真つ暗で、硝子に額をすり寄せて見ても森と空との境界も漸く見分けられるくらゐであつた。
僕の直ぐ隣にはばかに肥つた男がゐて、僕は追ひ詰められたやうになつて腰掛けてゐる。大きいトランクを二つ持つて、お土産物も沢山棚に積んでゐる此の男は、神経が太くて、まづまづ彼の親戚間では成巧者であるのに相違ない。汽車が東京駅を出たばかりの時、僕の連れの横手にゐる男がどちらまでですと訊ねたが此の男は返事もしないで見てゐた新聞をパシヤリと畳み直すと、又他の面を読みはじめた。黒のサージの背広を着て、テカテカに光るネクタイを締めてゐる。ポマードは生え際ばかりに厚く塗つたくつてあつて、その太い首が動くたびに山猫か何かの感じがした。今はもうぐつすり眠つてゐて、脚を伸ばしたい放題に伸ばしてゐる。かういふ風なら時代の如何を問はず運命を開拓してゆくのであらうと思つた。
通路を距てて直ぐの向ひ側には、鉄道従業員の妻君みたいなのが、胸をはだけて赤ン坊に乳を飲ませてゐる。その赤ン坊が五分置きくらゐには目を覚まして泣きはじめる。そのたびにレールの軋音は肉声に消され、電燈はひときは明るくなるやうに思はれる。その赤ン坊の真ん前に腰掛けてゐる…