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あい
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本かの子全集5」 ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年8月24日
初出「文筆」1938(昭和13)年9月号
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2020-03-01 / 2020-02-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 その人にまた逢うまでは、とても重苦しくて気骨の折れる人、もう滅多には逢うまいと思います。そう思えばさばさばして別の事もなく普通の月日に戻り、毎日三時のお茶うけも待遠しいくらい待兼ねて頂きます。人間の寿命に相応わしい、嫁入り、子育て、老先の段取りなぞ地道に考えてもそれを別に年寄り染みた老け込みようとは自分でも覚えません。縫針の針孔に糸はたやすく通ります。畳ざわりが素足の裏にさらさらと気持よく触れます。黄菊などを買って来て花器に活けます。
 その人にまた逢うときには、何だか予感というようなものがございます。ふと、ただこれだけの月日、ただこれだけの自分ではというような不満が覚えられて莫迦々々しい気持になりかけます。けれども思えばその気持もまた莫迦らしく、こうして互い違いに胸に浮ぶことを打ち消すさまは、ちょうど闇の夜空のネオンでしょうか。見るうちに「赤の小粒」と出たり、見るうちに「仁丹」と出たり、せわしないことです。するうち屹度その人に逢う機会が出て来るのでございます。
 出がけのときは、やれやれ、また重苦しく気骨の折れることと、うんざり致します。逢って見る眼には思いの外、あっさりして白いものの感じの人でございます。ただそれに濡れ濡れした淡い青味の感じが梨の花片のように色をさしてるのが私にはきっと邪魔になるのでございましょう。
 その人は体格のよい身体をしゃんと立てて椅子に腰をかけ、右膝を折り曲げています、いつも何だか判らない楽器をその上に乗せて、奏でています。普通には殆ど聞えません。私は母から届けるよう頼まれた仕立ものを差出します。その人は目礼して受取って傍の机の上に置きます。そして手で指図して私をちょうどその人の真向うの椅子に掛けさせて、また楽器を奏で続けます。その人は何も言いません。細眼にした間から穏かな瞳をしずかに私の胸の辺に投げて楽器を奏でます。私の不思議な苦しみはこれから起ります。
 その人の中には確に自分も融け込まねばならぬ川が流れている。それをだんだん迫って感じ出すのです。けれどもその人は模造の革で拵えて、その表面にエナメルを塗り、指で弾くとぱかぱかと味気ない音のする皮膚で以て急に鎧われ出した気がするのです。私の魂はどこか入口はないかとその人の身体のまわりを探し歩くようです。苦しく切ない稲妻がもぬけの私の身体の中を駆け廻り、ところどころ皮膚を徹して無理な放電をするから痛い粟粒が立ちます。戸惑った私の魂はときどきその人の唇とか額とかに向っても打ち当って行くようです。アーク燈に弾ね返される夜の蝉のように私の魂は滑り落ちてはにじむような声で鳴くようです。
 私は苦しみに堪え兼ねて必死と両手を組み合せ、わけの判らない哀願の言葉を口の中で呟きます。けれどもその人は相変らず身体をしゃんと立て、細い眼の間から穏かな瞳を私の胸に投げたまま殆ど音の聞えぬ楽器を奏でて…

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