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さくらんぼ
さくらんぼ
作品ID58382
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本かの子全集1」 ちくま文庫、筑摩書房
1994(平成6)年1月24日
初出「週刊朝日」1932(昭和7)年6月5日
入力者門田裕志
校正者いとうおちゃ
公開 / 更新2024-02-18 / 2024-02-12
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 さくらんぼうは彼女の唇を熱がるが、彼女の唇はさくらんぼうに涼もうとする。

 さくらんぼうを三粒ほど束ねて女は男の頬を叩いた。その時男の決心がついた。彼女がそれを思い出している時小さいみか子が金魚にたべさせようとしてさくらんぼうを玻璃鉢のなかへ一粒いれてやった。金魚はそれを口で突つくが喰べられない。みか子はもどかしがり鉢の側で「ああん、とお口を開いて開いて」と教えている。彼女はそれを見ていて何故か涙ぐんだ。

 三味線の稽古の師匠をしている彼女のおふくろはさくらんぼうの籠を膝の上に抱えた。
「他所さまへあげるのにはちっと整理をしなくては」
 熟し過ぎた皮の痛んださくらんぼうを拾い出しておふくろは口の中へいれて仕舞う。女弟子の酉子がこれを見て笑う。
「お師匠さんのお腹はまるでゴミ箱ね」
「はい、はい、そうですよ」
 おふくろは一向さからわ無い。余念なく籠から痛んださくらんぼうを選って喰べ続ける。おふくろも意地が無くなったと彼女は思う。

 彼女の部屋。ピアノの上。さくらんぼうの一握が枇杷と並んで載っている。さくらんぼうはいう「こうやっていつまでも置かれてあの男の写生のモデルにされるのも宜いけれど、夜になると鼠が怖くてね」枇杷は答える「美しいものは患が多いのですよ」画架の上に小さい画板が載っている。画はまだ、ほんの少ししか出来ていない。
 外は夕暮近いのに明るい昼がいつまでも続くもののように柳の虫売りが切のよい声で虫の効能を唄って行く。
 ここは都会からそう遠くない郊外の町村だ。

 町外を流れる広い砂川が町の経済を決定する。川は町にいろいろのものを運んで来てくれる。さくらんぼうもその一つだ。川が直接この美しい珠玉を運んで来るわけではないのだが川は山を崩して岩にし岩を崩して石にし石をくだいて砂利にし砂利をふるって土にする。その、さらりとして空気と光線を透し易い土の質は培養素のように果樹の種子を受付ける。受付けた種子をたちまち実にする。「田の中へ入れる養殖鯉と、川岸土の上の果樹には成長に途中の過程というものが無い。種子が直ぐ実である」とこの町の青年産業聯盟の会長をしている町長の息子はこういう言葉を使ってこの二つのものの培殖を奨励する。それでこの町村は初夏はさくらんぼうの村になった。(秋は梨と鯉の村になる)

 彼女は町長の息子のこういう言葉が嫌いだ。息子が川のことを「自働工夫」と呼ぶ言葉などなおさら嫌いだ。だが町長の息子はそういうことを嫌う、彼女が却って好きなのだ。間に立って彼女のおふくろは「好きなものと嫌いなものと混ぜ合せるがよい。好きな者と好きな者とじゃあんまり世の中が偏りすぎてしまうよ。第一あそこの家にはおとつあんの時代から随分世話になっているのだからね」そういっているうちにその町長の農学士と彼女の結納を取り交して仕舞った。

 男は絵の具箱を担いでさかな…

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