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ある日の蓮月尼
あるひのれんげつに
作品ID58396
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本かの子全集1」 ちくま文庫、筑摩書房
1994(平成6)年1月24日
入力者門田裕志
校正者いとうおちゃ
公開 / 更新2021-02-18 / 2021-01-27
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

第一景

(六畳程の部屋。机一つと米櫃一つ置いてある。側は土間になって居る。土間には轆轤台と陶土、出来上った急須や茶碗も五つ六つ並んでいる。
部屋の方にて蓮月尼と無名の青年と対座。)
無名の青年 ――僕はとうとうこの短冊を見付けて来ました。
蓮月 ――(短冊を青年から受け取って読む)――木の間よりほの見し露のうす紅葉おもひこがるゝ始めなるらん――これはいつかわたくしが京のお人に頼まれて書いて差上げた歌です。これがどうかいたしましたか。
無名の青年 ――こんな歌を詠むあなたが人情を解さぬと云う筈はありません。僕はそれを発見してうれしいのです。
蓮月 ――わたくしは人情を解さぬとあなたに一度も云った覚えはありません。人一倍涙もろい性質に自分でも困っております。
無名の青年 ――人情を解しながら涙もろくて、而も僕の熱情を容れて下さらないのは矢張り僕がお嫌いだからなのですね。
蓮月 ――めっそうな。あなたを好きの嫌いのという贅沢ではありません。わたくしはもう、そういう世界から見離された人間です。正直に申せばそれ以上の世界にひかれ出された人間です。
無名の青年 ――愛のまごころより以上の世界があるでしょうか?
蓮月 ――あるか無いかより、どうしてもあってもらわなくてはならなくなったわたくしの心持ちを少しお話いたしましょう。わたくしとて夫婦生活を体験し、子供も二三人持った女です。わたくし等夫婦は媒酌で結婚したものの、その間には愛が完全に生れ、子供も随分可愛く御座いました。愛の生活としては可成り幸福なものでございました。それを一時にわたくしは持って行かれてしまいました。夫も子供もあっけなく死んで行って仕舞いました。これを宿命と解さないでどう諦めましょう。時には諦めかねて、世間の人情どおり、死んで夫や子供の跡を追おうと決心したことも何度あったか知れません。然しそれが決行できなかったのは一人の親の為でした。わたくしには一人の老いた父があり、それを養う為にしばらく死を思い止まらねばなりませんでした。
無名の青年 ――くわしくは今が始めてですが、そういうあなたの御事情は前から大分知って居ました――で、あなたは世の中は無常だから、愛までも信じられなくなったといわれるのですか?
蓮月 ――一番幸福な絶頂から一番不幸な谷底へ蹴落された人間に、それを敢て繰り返す勇気も精もまだ残って居るとあなたはお思いですか?
無名の青年 ――僕の愛は死や無常では覆えされない積りです。僕の愛は永遠にあなたを活かし切ります。
蓮月 ――それはまだお若いあなた方の仰る事です。わたくしとてあなた方の年頃にはそうも云い、そうと思い込んで居りました。然しいよいよ事実に遇って――身辺に触れ合うあたたかい掌が無くなり、くしけずって遣る小さい頭の髪の毛が目前になくなった時、どうして、愛の、永遠のと呑気な事がいって居られま…

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