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永遠の詩人
えいえんのしじん
作品ID59328
副題宿命生涯を貫く
しゅくめいしょうがいをつらぬく
著者萩原 朔太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「萩原朔太郎全集 第九卷」 筑摩書房
1976(昭和51)年5月25日
初出「帝國大學新聞」1936(昭和11)年4月27日
入力者きりんの手紙
校正者岡村和彦
公開 / 更新2021-03-25 / 2021-02-26
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 僕は少年の時、島崎藤村氏と薄田泣菫氏の詩を愛讀した。やや長じて後は、蒲原有明氏や北原白秋氏の作を讀んだ。
 藤村氏と泣菫氏とは、少年時代の僕にとつて共に同じやうに好きであつた。しかしどつちかと言へばむしろ泣菫の方が好きであつた。その理由は、泣菫の詩に於ける特殊な佶屈の言葉と、その詩情に本質してゐる孤獨な憂鬱の陰影とが僕の個性に近く接觸するものがあつたからだ。之れに反して藤村の詩は、僕にとつてあまりにナイーヴで明るすぎ、陰影のない不滿さを感じさせた。もし藤村をゲーテとすれば、當時の泣菫はキーツであつた。そして僕の個性は、ゲーテよりもキーツやシエレーに近かつた。
 然るに最近、再び兩者の詩を讀み返して見て、やはり藤村の方がよく、眞の本質的なポエヂイをもつたところの、眞の純粹の詩であるといふことを強く感じた。泣菫の方は、どういふものか、僕にとつて昔の魅力を無くしてしまつた。
 その理由の一つは、兩者の詩共、昔の初版の原本でなく、後に改造社や新潮社で出したところの、自選詩集によつて讀んだ爲であるか知れない。その泣菫氏の自選詩集には、僕が昔愛讀した詩が殆んど皆オミツトされ、僕の嫌ひだつた詩ばかりがしかも多くの斧鉞を加へて集めてある。泣菫氏の詩は、その初期の物(暮笛集・ゆく春)ほどよく、純粹なリリシズムが盛られて居るのに、自選詩集には、却つてその詩情を稀薄にした後期の敍事詩風の作が多く入れられてある。
 この自選詩集に對する不滿は、蒲原有明氏についても同じであつた。自選詩集に採録されてる有明の詩は、彼の中での最も惡い作品であり、多くは修辭的の技巧に凝つて、リリツクの純眞性を喪失してゐるやうなものばかりである。しかもそれが、詩情を失つた詩人の修辭學的な凝り性によつて、原作よりもずつと惡く改作されてる。
 島崎藤村氏が、獨り彼等の中での例外だつた。藤村氏の自選詩集には、過去の作品での最も秀れたもの、最も純粹で美しいものばかりが選りぬいてある。たまたま斧鉞を加へられたと思ふ個所も、決して原作の詩情を失はないばかりか、却つて原作よりも善くなつて居る。そしてこの一つの事が、他の何人にもまさつて、藤村氏が眞の本質的の詩人であり、生れたる宿命の詩人であることを證左して居る。
 つまり言へば薄田泣菫氏や蒲原有明氏やは、或る若い時代だけ詩人であり、後に年を取つてからは、本質的にそのリリシズムを喪失してしまつたのである。(そしてリリシズムを無くした時代に、その自選詩集が編纂された。)然るに島崎藤村氏だけは、今日の老年に至るまで、一貫してその魂に純のリリツクを所有して居るところの、眞の宿命的な詩人であつた。
 それ故に藤村氏の文學は、彼が詩を書かなくなつてからも、そのすべての小説作品を通じて、旺盛な詩的情熱で一貫して居る。藤村氏の場合で言へば、單に「詩」といふ文學の形式が、「小説」といふ文…

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