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悲しき決闘
かなしきけっとう
著者萩原 朔太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「萩原朔太郎全集 第九卷」 筑摩書房
1976(昭和51)年5月25日
入力者きりんの手紙
校正者岡村和彦
公開 / 更新2020-08-01 / 2020-07-27
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 雜誌「文藝」に發表した僕の評論(詩に告別した室生犀星君へ)は、意外にも文壇の人々に反響した。正宗白鳥氏と、川端康成氏と、それから他の二三氏とが、新聞紙上にこれを論じ、そろつてみな僕の主旨に同感を表してくれた。單に同感したばかりではない。非常な熱情を以て書いてるのである。いつも文壇から白眼視されてる、僕等の長い「詩人の嘆き」が、今日昭和の文壇で、かうした反響を見ることは意外であつた。同時にまたそれによつて、僕等の孤獨な詩人の嘆きが、文壇の一部にも共通する嘆きであり、日本現代文化の矛盾と悲劇を内容するところの、痛ましい實相であることを知つて悲しくなつた。「我等何處へ行くべきか」といふ標題は、必ずしも詩人ばかりの標題ではない。小説家も評論家も、日本のすべての智識人種は漂泊者である。

 日本語はレアリスチックな文學表現に適さないといふことが、最近小説家の間に論じられ悲觀されてる。だが彼等の場合は、それが必ずしも致命的の絶望を意味してゐない。僕等の詩人の場合にあつては、國語の問題が全部なのだ。日本語は、西洋風の近代小説に適さないと同じく、西洋風の近代詩には尚ほもつと根本的に適しないのだ。その適さない道具を以て出發した僕等の歴史は、新體詩の出發以來あらゆる敗北のしつづけだつた。僕等は卵を重ねて家を建てようとし、虚無よりの創造にあがきながら、絶望の戰ひを戰つて來た。しかも努力は報いられず、外からは嘲笑と冷淡とを以て遇されて來た。詩人の運命について考へれば、昔も今も――おそらくはまた未來も――ただ暗爾たるのみである。

 詩人になることの運命は、ニヒリストになることの運命だと誰れかが言つた。さうかも知れない。あの女性的で、感傷的で、本來優美な性情をもつた殉情詩人の生田春月が、晩年に於ける烈しい思想への轉向は何を語るか。あの牝牛のやうに健康で、ゲーテのやうに萬有を包合する人類愛の詩人高村光太郎が、最近に於けるニヒリスチックの詩は何を語るか。彼等がもし外國に生れたら、生涯その天質の美を守つて、朗らかな詩を書いた筈だ。彼等は好んで行つたのではない。無理にその道へ追ひ込まれたのだ。何が彼等を追ひ込んだか。國語の問題ばかりではない。日本の文化と社會に淵源してゐる、過渡期の恐ろしい罪惡がそこにあるのだ。――詩人はすべての犧牲者である。

 僕の一文から演繹された、川端康成氏の室生犀星論(朝日新聞)は適評だつた。室生君は詩に告別しても、決して文學に告別できない作家である。なぜなら彼は、眞の天質的な文學者であるからだ。川端氏は僕と同じく、日本文壇に於ける傳統的東洋趣味の横行(それが西洋的近代文學の發育を妨げてる)を悲しんでゐる。この點に關して言へば、おそらく僕と同じ抗議を室生君に持つのであらう。しかも室生君の藝術そのものに對しては、一も二もなく敬服すると言つて嘆賞してゐる。何故に敬服す…

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