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詩に告別した室生犀星君へ
しにこくべつしたむろおさいせいくんへ
作品ID59331
著者萩原 朔太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「萩原朔太郎全集 第九卷」 筑摩書房
1976(昭和51)年5月25日
初出「文藝 第二卷第十號」1934(昭和9)年10月号
入力者きりんの手紙
校正者岡村和彦
公開 / 更新2020-08-01 / 2020-07-27
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 先に詩集「鐵集」で、これが最後の詩集であると序文した室生君は、いよいよ雜誌に公開して詩への告別を宣言した。感情詩社の昔から、僕と手をたづさへて詩壇に出て、最初の出發から今日まで、唯一の詩友として同伴して來た室生君が、最後の捨臺詞を殘して告別したのは、僕にとつて心寂しく、跡に一人殘された旅の秋風が身にしみて來る。
 室生君の告別演説には、自己に對する反省と苛責とがあり、それが外部に八當りして、多少皮肉な調子を帶びてゐた。詩は少年や青年の文學だから、中年になつて詩に執するのは未練であり、潔よく捨ててしまふ方が好いと言ふのである。一應それにはちがひないが、ここにはまた室生君自身の場合に於ける、特殊な個人的な事情が指摘される。元來、僕等の作る「詩」といふ文學は、西洋から舶來した抒情詩や敍事詩の飜案で、日本に昔からあつた文學ではない。日本の國粹のポエムは、だれも知つてゐる通り和歌や俳句である。かうした傳統の詩があるところへ、さらに西洋から輸入して、また一の別なポエムを加へた。そこで今の日本には、和歌と、俳句と、歐風詩と、つまり三つの詩があるわけである。
 さてこの最後の歐風詩、即ち僕等が普通に「詩」と呼んでるものは、西洋では「文學の精華」と言はれるほどで、西洋文藝思潮の最も本質的なエスプリを代表してゐる。日本の新しい文壇は、小説に、戲曲に、評論に、明治以來すべて西洋のそれを模倣し、飜案輸入することに勉めたけれども、その中最も根本のものは詩であつて、これに西洋文藝のエキスされた一切の精神があるのだから、詩の飜案と輸入の完全にされない限りは、日本に眞の西洋思潮は移植されないわけである。したがつてその輸入者である詩人といふ連中は、日本の文學者の中でいちばん氣質的に西洋臭く、身體の中からバタの臭ひがするやうなハイカラ人種に限られてゐる。たとへ外貌はどうあらうとも、性格氣質の底に西洋風なキリスト教や、ギリシャ思潮を傾向した人種でなければ、詩の輸入飜案者たる詩人の役目は勤まらない。そして實際にもその通り、日本で詩人と呼ばれる連中は、過去に於ても現在に於ても、どこか他の一般文學者とちがつたところがあり、何かしら日本の風土習俗に馴染まないところの、妙に周圍と調和しないエトランゼのやうな風貌がある。
 近頃或る一部の詩人は言ふ。日本の詩は日本の詩である。西洋の眞似や飜案をする必要はなく、國粹のものを創作する方が好いではないかと。しかし若しそれだつたら、むしろ和歌や俳句を作る方がよく、詩の必要が無いではないかと反問される。實際僕等の詩操の中から、西洋風の趣味や情操を除いてしまへば、必然の結果として、俳句や歌が出來てしまふ。日本人らしい情操を歌ふ爲には、これほど適切なポエムはなく、丁度西洋人は抒情詩や敍事詩が適切であるやうに、我々には俳句や和歌が最も自然的にぴつたりしてゐる。詩を必要とす…

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