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作品ID | 59398 |
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著者 | 萩原 朔太郎 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「萩原朔太郎全集 第八卷」 筑摩書房 1976(昭和51)年7月25日 |
初出 | 「創作 第十六卷第十一號」1928(昭和3)年12月号 |
入力者 | きりんの手紙 |
校正者 | 岡村和彦 |
公開 / 更新 | 2019-09-17 / 2019-08-30 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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若山氏の死について、遺族の方から御通知がなかつた爲、僕はずつと遲く、最近になつて始めて知つたわけであつた。明治大正の歌壇にかけて偉業を殘した、このなつかしい巨匠を失つたことは、個人としての友情以外に、深く痛惜に耐へないことである。
僕が始めて牧水氏を知り、文學上での交遊關係を結んだのは、以前の雜誌「創作」の頃からだつた。當時僕は、室生犀星君と共に詩壇に出て、北原白秋氏の雜誌「ザムボア」に寄稿してゐた。然るに「ザムボア」が廢刊になつた爲、白秋氏は僕の詩稿を保存して牧水氏の「創作」に[#挿絵]送された。(これは當時の僕にとつて、非常に嬉しいことであり、未だに深く白秋氏の御親切を忘れない。)かうしたわけで、以後僕の詩篇は、ずつと牧水氏の雜誌に掲載されることになつた。當時僕と一所に、同じ「創作」に詩を書いてゐた人々は、室生君の外、白鳥省吾君、山村暮鳥君、中川一政君、吉川惣一郎君等であつたが、この内で吉川惣一郎君と室生犀星君とが、最も數多くの詩を毎號書いてゐた。(吉川惣一郎は今日の改名した大手拓次で、近頃「近代風景」で大に活動されてる詩人である。)
かうした關係から、僕も次第に牧水氏と文通し、遂に創作社を訪ねて逢ふことにした。僕が訪ねた時、牧水氏は二階の汚ない部屋に案内され、酒など出して待遇されたが、當時僕は頭髮など縮らして大にハイカラぶつて居たので、田舍者ムキ出しの牧水氏には、いささか意外の苦手らしく、妙な顏して僕を不思議さうに眺めてゐた。僕の方でも、牧水氏の意外に田舍者であり、百姓然たる風貌に少しく面喰つた形であつたが、その中に話してみると、非常に親しみがある人物なので、すつかり打解けて懇意になつた。
その後も幾度か、僕は牧水氏と一所になり、よく淺草公園の裏通りや、吉原の遊廓などを歩き[#挿絵]つた。僕の驚いたことは牧水氏がよく人の腰を打つ癖のあることだつた。何とか言つては、「どうだね」と言つて僕の腰を叩く。それが如何にも百姓らしく、純朴な好人物を感じさせた。しかし僕の都會的な趣味性格と、牧水氏の田園的な野性とは、どこかで食ひちがふところがあるらしく、お互に好意と敬愛とを持ちながら、眞に氣心まで打ち解ける機會がなかつた。
此所でついでに話しておくが、當時の文壇と今日の文壇とは、色々な點で事情が大にちがつて居た。今日の文壇では、詩人や歌人が全く圈外に放逐され、一種の文壇的非人間として輕視されてゐる有樣だが、當時は尚「詩」の勢力が甚だ強く、牧水氏や白秋氏の名聲は、文壇全體の上に廣く輝やいて居たのである。また今日では、僕等の歐風的な敍情詩と、傳統的な詩形による歌や俳句やの短詩とが、全く交渉のない別天地の者になつてゐるが、當時はそれが一つであり、廣義の「詩」といふ觀念中に、歌や俳句や敍情詩(當時はそれを長詩と呼んだ)が、一所に取扱はれてゐたほどだつた。したがつて…