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河豚のこと
ふぐのこと
著者北大路 魯山人
文字遣い新字新仮名
底本 「春夏秋冬 料理王国」 ちくま文庫、筑摩書房
2010(平成22)年1月10日
初出「星岡 二十七号」星岡窯研究所、1933(昭和8)年2月
入力者江村秀之
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2020-11-27 / 2020-10-31
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

河豚のうまさ

 ふぐのうまさというものは実に断然たるものだ、と私は言い切る。これを他に比せんとしても、これに優る何物をも発見し得ないからだ。
 ふぐのうまさというものは、明石鯛がうまいの、ビフテキがうまいのという問題とはてんで問題が違う。調子の高いなまこやこのわたを持ってきても駄目だ。すっぽんはどうだと言ってみても問題が違う。フランスの鴨の肝だろうが、蝸牛だろうが、比較にならない。もとより、てんぷら、うなぎ、寿司などの問題ではない。
 無理かも知れぬが、試みに画家に例えるならば、栖鳳や大観のうまさではない。靫彦、古径でもない。芳崖、雅邦でもない。華山、竹田、木米でもない。呉春あるいは応挙か。ノー。しからば大雅か、蕪村か、玉堂か、まだまだ。では光琳か、宗達か。なかなか。では、元信ではどうだ、又兵衛ではどうだ、まだだ。光悦か、三阿弥か、雪舟か、もっともっと。因陀羅か、梁楷か、大分近づいたが、さらにさらに進むべきだ。然らば白鳳か、天平か、推古か、それそれ。すなわち推古だ。推古仏。法隆寺の壁画。それでよい。ふぐの味を絵画彫刻で言うならば正にその辺だ。
 しかし、画をにわかに解することは、ちょっと容易ではないが、ふぐの方は食物だけに、またわずかな金で得られるだけに、三、四度も続けて食うと、ようやく親しみを覚えて来る。そして後を引いて来る。ふぐを食わずにはいられなくなる。この点は酒、煙草に似ている。
 一たびふぐを前にしては、明石鯛の刺身も、鬼魚のちりも変哲もないことになってしまい、食指が動かない。ここに至って、ふぐの味の断然たるものが自覚されて来る。しかも、ふぐの味は山における蕨のようで、そのうまさは表現し難い。と言うふぐにもうまいまずいが色々あるが、私の言っているのはいわゆる下関のふぐの上等品のことである。いや、ふぐそのものである。

ふぐ汁や鯛もあるのに無分別

 ふぐでなくても、無知な人間は無知のために、何かで斃れる失態は沢山の例がある。無知と半可通に与えられた宿命だ。
 それでなくっても、誰だって何かで死ぬんだ、好きな道を歩んで死ぬ……それでいいじゃないか。好きでなかった道で斃れ、逝くものは逝く。
 同じ死ぬにしてもふぐを食って死ぬなんて恥ずかしい……てな賢明らしいことを言うものもあるが……そんなことはどうでもいい。
 芭蕉という人、よほど常識的なところばかり生命とする人らしい。彼の書、彼の句がそれを説明している。「鯛もあるのに無分別」なんて言うと、鯛はふぐの代用品になれる資格があるかにも聞え、また鯛はふぐ以上にうまいものであるかにも聞える。所詮、鯛はふぐの代用にはならない。句としては名句かも知れないが、ちょっとしたシャレに過ぎない。
 小生などから見ると、芭蕉はふぐを知らずにふぐを語っているようだ。他の句は別として、この句は何としても不可解だ。
 鯛である…

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