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芥川竜之介の追憶
あくたがわりゅうのすけのついおく
作品ID59978
著者萩原 朔太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「萩原朔太郎全集 第八卷」 筑摩書房
1976(昭和51)年7月25日
初出「文藝春秋 第六卷第十號」1928(昭和3)年10月号
入力者岡村和彦
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2020-03-01 / 2020-02-21
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 この頃になつて、僕は始めて芥川君の全集を通讀した。ずゐぶん僕は、生前に於て氏と議論をし、時には爭鬪的にまで、意見の相違を鬪はしたりした。だが實際のところを告白すると、僕はあまり多く彼の作品を讀んでゐなかつたのだ。そこで二言目には、芥川君から手きびしく反撃された。「君は僕の作品をちつとも讀んでゐないぢやないか。」「君がもし、いつか僕の全集をよんでくれたらなあ!」
 實際、僕は芥川君と交際しながら、しかもその忠實の讀者でなかつたことを、いつも心に恥ぢ、身にひけて感じてゐた。だがその理由は、決して僕が彼の作品を好まなかつたからでない。否むしろ、芥川龍之介と谷崎潤一郎とは、僕が小説について鑑賞し得る、唯一の二人だけの作家であつた。一體言つて、僕は小説といふ文學が甚だ嫌ひだ。僕にとつて讀みたいものは、文學中で「詩」と「評論」の二つしかない。小説といふものはだらだらして、くだらないことを細々と書き立てるので、讀むからに退屈であり、僕のやうな結論を急ぐ性急者には、てんでのつけから讀む氣がしない文學である。特に就中、身邊記事のくだらない出來事を、茶呑み婆さんの繰言みたいに、絮々細々と――文壇の術語で言へば克明に――書き立てた日本の文壇小説に至つては、義務にも讀めた次第でない。序でだから言つておくが、あんな無意味で退屈な文學を、心境小説とか本格小説とか命名してありがたがつてゐる文壇は、世界的にも特殊であり、馬鹿馬鹿しさの程が知れないと言ふものだ。
 かうした小説嫌ひの僕であるが、それでも流石に、興味をもつて讀む作品もある。その異數の例外は、前に言つた通り唯二人の作家、即ち芥川龍之介と谷崎潤一郎の小説である。この二人の小説家は、氣質のいろいろな點で反對して居り、見方によつては地球の兩極を代表するコントラストであるけれども、しかも文學の或る本質的な一點で、全く立場を一にしたものがある。だがこんな人物評論は、此所に論ずべき限りでない。とにかくこの二人の作家だけは、日本の文壇の例外であり、身邊記事の退屈な茶呑話を書かないだけでも、僕にとつては興味がある。
 さうしたわけからして、僕の立場になつてみれば、芥川君の作品の如きは、先づ大に讀んでる方であるけれども、元來言つて、僕は多讀の性分でなく、たいていのものならば、人の十分の一も讀まない方であるから、嚴重の意味に於て、僕が芥川君を「ちつとも讀んでゐない」のは本當だつた。そのことから、僕は常に友情に對する負債を感じ、いつしかそれを辨償しようと思つてゐた。(もつともこれは、室生犀星君等に對しても同じであるが。)その上、近頃僕はどういふものか、芥川君に對する追憶の情が次第に濃厚になつて來た。近頃になつて考へれば考へるほど、彼の自殺には意味が深く、故人の人格について考へることが深くなつた。
 かつてあの自殺のあつた時、僕は感激して長編の文を草…

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