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常識家の非常識
じょうしきかのひじょうしき
作品ID59980
著者萩原 朔太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「萩原朔太郎全集 第八卷」 筑摩書房
1976(昭和51)年7月25日
初出「不同調 第六卷第三號」1928(昭和3)年3月号
入力者岡村和彦
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2021-11-01 / 2021-10-27
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 僕等の如き所謂詩人が、一般に缺乏してゐるものは「常識」である。この常識の缺乏から、僕等は常に小説家等に輕蔑される。それで僕等自身もまた、その缺點を自覺してゐることから、常に常識的なものに畏敬し、常識學の修養につとめて居る。
 この意味から、僕は常に「文藝春秋」を愛讀してゐる。文藝春秋といふ雜誌は、文壇稀れに見る「頭腦の好い雜誌」であつて、編輯がキビキビとして居り、詰將棋の名手を見るやうな痛快さがある。しかしそんなことよりも、この雜誌の特色はその常識學の徹底にある。常識とは何ぞや、常識的精神の價値とは何ぞやといふことを、もし眞に知らうとする人があるならば、先づ文藝春秋を讀むが好い。それで僕は、ずつと前からこの雜誌を「常識のメンタルテスト」として、一種の特別な敬意を表してゐた。丁度僕のこの敬意は、我々詩人が時に小説家に對して抱く所の、或る種の畏敬と同じ性質の者であつた。
 所が偶然にも、最近この文藝春秋の記事からして、僕の常識に對する見解に大なる動搖が生じて來た。すくなくとも僕が、從來「常識の價値」を高く買ひかぶりすぎたことに氣がついて來た。と言ふわけは、最近この雜誌の文藝春秋子が、二囘に亙つて書いた僕の毒舌を讀んだからである。もちろん僕は、雜誌の六號記事がゴシツプ的に書く漫罵なので、神經質に抗議する男ではない。此所に言はうとするのはそれでなく、小説家的常識の價値(それを小説家は常に誇つてゐる)が、案外くだらぬ安物にすぎないことを、それによつて始めて知つたからである。
 文藝春秋の六號子は、前に僕の書いた芥川龍之介君の追悼文で、僕を無理解に惡口し、第二の島田清次郎にたとへてゐる。春秋子の理解によれば、僕のあの文(改造所載芥川龍之介の死)は、芥川君に對する冒涜であり、自己尊大であり、故人を恥かしめたものであるさうだ。それを讀んだ時、僕は世にも意外な讀者があるものだと思つて、自ら事の意外に呆然とした。僕は芥川君を詩人でない――詩を熱情する小説家だ――と言つたけれ共、それが何等芥川君に對する侮蔑でなく、反對に高い程度の尊敬と愛情とで、あの人の悲壯な精神に感激を込めた言であるのは、常識を有する限り、だれでもあの文章の讀者に解る筈だ。僕は文藝春秋子の毒舌をよんで先づ「常識家の非常識」といふことを考へた。
 所が二月號の同じ雜誌に、同じ文藝春秋子がまた僕の毒舌を、僕の新潮所載の文(室生犀星に與ふ)について書いてる。それによると、僕のあの文章は室生君の舊惡をあばいたもので、故意に友人を陷入れ、他人の過去を恥かしめ、以て獨り自ら正義を賣らうとするものであるさうだ。何たる意外の言だらう。之れにもまた僕は呆然としてしまつた。僕にとつてみれば、室生君の過去は一の英雄的生活であつた故に、その囘想を書くことは、友の傳記における讚美であつた。僕はあの文章の前半を、傳記記者の熱情と讚美で書…

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