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室生犀星君の人物について
むろうさいせいくんのじんぶつについて
作品ID59981
著者萩原 朔太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「萩原朔太郎全集 第八卷」 筑摩書房
1976(昭和51)年7月25日
初出「オルフェオン 第八號」1929(昭和4)年12月号
入力者岡村和彦
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2022-08-01 / 2022-07-27
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 最近第一書房からして、僕の選した室生犀星君の詩集が出るので、この際僕の見た室生君を、人物的に略記してみたいと思ふ。尤も僕は、以前から幾度も室生君のことを書き、むしろ書きすぎてゐるほどであるが、最近彼が大森へ移轉して來て、田端以來の舊交が大に温まつたので、また新しく書く感興が起つたのだ。

 人物としての室生君は、だれも言ふ如く眞に純情無比の人である。(作品としてもさうであるが、この場合は成るべく人物印象に止めておきたい。)この頃では毎日のやうに彼と逢ひ、親しく酒など飮み合つてゐるが、あまり純情すぎることから、時としては腕白小僧のやうに思はれる。特に議論などする時さうであつて、人の理窟などには耳を藉さず、何でもかんでも俺はかうだと言ひ立てる。それが天眞爛漫だからして、まるで駄々つ子が暴れ出すやうで、なんとも言ひがたく純眞である。彼と親しくしてゐるお蔭で、僕は自分の中の最も美しい「純粹のもの」を、いつも失はずに持つてゐられる。その點だけでも、彼は僕にとつての益友だが、あんまり腕白小僧の我武者羅が強い時には、さすがに僕も腹が立つて、時々子供同士のやうな喧嘩をする。
 室生と交際をしてゐる間、不思議に僕は昔の小學校時代を思ひ出す。その小學時代には、或る腕白小僧の友だちがゐて、よく子供らしい意地惡から、僕を皮肉にからかつたり惡口したりした。そのくせ二人は不思議に仲がよく、毎日喧嘩をしては毎日逢つて親しくしてゐた。室生君がまたその通りで、よく僕の惡口や皮肉を言ひ、時としては必要のない意地惡さへするのであるが、その意地惡がいかにも子供の意地惡らしく、むしろ意地惡されることによつて、友情への深入りを感じさせるほどである。すべての點に於て、彼は小學一年生のやうな男である。すべての人は、小學一年生である時ほど、人生や自然について、最高の深い智慧をもつものはない。なぜなら彼等は、今日只今生れたばかりの、全く新鮮な自由の心で、一切の宇宙を見るからである。
 それ故にまた、小學一年生の作文や自由畫ほど、藝術の淳い眞髓に觸れ、祕密をつかんでゐるものはないのだ。これが二年から三年へと、上級へ進むにしたがつてだんだん平凡なくだらぬ藝術家に變つてしまふ。そこで藝術家が、他の技術や頭腦やの上達にかかはらず、精神の本質點でのみ、いつも永久に小學一年生でゐられたなら、その人こそは眞に「天才」と呼ばれるのである。
 室生犀星の抒情詩は、あの無心な小學一年生が舌で鉛筆の心を嘗めつけながら、紙の上にごしごしと書いてゐるところの、あの片假名の作文を思ひ出させる。特に「抒情小曲集」と「忘春詩集」の二詩集は就中また小學一年生の作文を典型してゐるが、不思議なことには、それがまた彼の作品中で一番よく、讀者の胸に乘りかけてくる、詩情の最も強いものを高調してゐる。思ふにこのことは、彼の小説についても同樣だらう。今日…

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