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室生犀星に就いて
むろうさいせいについて
作品ID59984
著者萩原 朔太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「萩原朔太郎全集 第八卷」 筑摩書房
1976(昭和51)年7月25日
初出「春陽堂月報 第二十九號」1929(昭和4)年10月号
入力者岡村和彦
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2021-08-01 / 2021-07-27
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 たいていの文學者は、何かの動物に譬へられる。例へば佐藤春夫は鹿であり、芥川龍之介は狐であり、谷崎潤一郎は豹であり、辻潤は山猫の族である。ところで、同じ比喩を言ふならば、室生犀星は蝙蝠である。彼はいつでも、自分だけの暗い洞窟に隱れてゐる。彼は鷲や鷹のやうな視覺を持たない。けれども翼の觸覺からして、他の禽獸が知らないところの、微妙な空間を感覺して居る。すくなくとも彼だけの洞窟では壁の裏側に這つてる小蟲や、空氣の濕つぽい臭ひまで、殘る隈なく觸覺してゐる。彼は他の世界に出られない。そこでは盲目になるからである。しかし自分だけの世界に於ては、宇宙第一の智慧者である。

 これからして犀星は、文壇で「感覺派」と呼ばれてゐる。たしかに! 彼は蝙蝠の翼をもつた感覺派である。だが感覺派といふ言葉が、もし感覺主義者を意味するならば、彼の本領は反對である。むしろ本質について言へば、彼は「純情派」の文學者を典型として居る。彼に於てはあらゆる人生が純情によつて眺められる。彼は決して、心から人を憎むことの出來ない男で、何物に對しても涙ぐましく、情緒のいぢらしさで眺めてゐる。自然でさへも、彼はいたはりの眼で觀察してゐる。げにその處女詩集に名付けた如く、犀星は「愛の詩人」なのである。

 彼の性格氣質の中には、多分に東洋的のものが滲み渡つて居る。それは藝術家の生活としても、彼を東洋的の修道院に住まはせてゐる。その東洋文人の修道院で、彼は、「身を修め藝を研く」の古訓を守り孜々として修養して來た。この點で彼の生活樣式は、故芥川龍之介君と同型であり、東洋文人の或る範疇を思はせる。一方で僕自身は、西洋流の文學史に特色してゐる、あのルツソオ的言行矛盾や、ドストイエフスキイ的不身持ちから、生活と藝術とを矛盾さすべく、そこに天才の定義を考へて來た。僕と彼は反對である。

 彼には二つの面がある。子供のやうに單純で無邪氣にまでいぢらしい一面と、文人意識で四角張り、窮屈に肩を張つてる一面である。淺い交際の人たちは彼について後の面にしか見て居ない。その觀察は人を誤まり、犀星を窮屈で氣むづかしく、時に反感を抱かせる迄、傲岸な人物のやうに印象させる。或はまた純東洋風の文人として、花鳥風月の趣味に遊ぶ、悟りすました人物のやうにも印象させる。だがその觀察は淺薄である。深く交際して知つてるものは、彼の本質がその點でなく、無邪氣な子供のやうに純眞であり、むしろ全くは「自然のままの野獸」でさへあることを、だれも觀察してゐるのである。しかも彼は性來の羞かしがりと内氣さからさうした「自然の本位」を人に隱し容易に見せまいと努力してゐる。

 しかしながら犀星は、實際にまた古武士的の典型を多量に持つてる。即ち佐藤惣之助の所謂「金澤藩士」で、氣質の本當の内部にさへも、裃を着た義理堅さや、劍を構へた禮節やがあるのである。犀星の評によ…

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