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名詩集「思ひ出」の真価
めいししゅう「おもいで」のしんか |
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作品ID | 59987 |
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著者 | 萩原 朔太郎 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「萩原朔太郎全集 第八卷」 筑摩書房 1976(昭和51)年7月25日 |
初出 | 「アルスグラフ 第二卷第一、二號」1926(大正15)年1、2月号 |
入力者 | 岡村和彦 |
校正者 | きりんの手紙 |
公開 / 更新 | 2022-01-25 / 2021-12-27 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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1
◇新しいものは古くなる。しかし善いものは惡くならない。
藝術の鑑賞では、これが最も大切な常識である。わが國の文壇では、いつも「新」と「善」とが同字義であり、「舊」と「惡」とが同じ概念を意味してゐる。即ち「古い」といふ言葉は、いつでも「無價値」を意味して居る。これがたいへんの間ちがひである。
◇すべての新しいものは、必然的に古くなる。昨日の新派は必ず今日の古典となる。しかしながら善いものは、常に永遠に善いのであつて、決して時代によつて價値を變へず、常に必ず善いのである。「古い」といふことは、しばしば「善い」といふことと兩立し得る。この常識がわからないものは仕方がない。
◇藝術の眞價を定めるものは、何といつても「時」である。時はすべての善いものと惡いものとを判別する。あらゆる藝術は、それが「新しい」印象をあたへる時には、決して眞價がわかつてゐない。今日世間で大家と言はれ、名作と呼ばれてゐるものが、殆んど大部分はニセモノであり、場當りの山師共であることを考へれば、いかに「今日の評價」がアテにならないことを知るであらう。ただ
◇此等の妖怪共も、時がたてば正體を現はしてくる。そして眞に價値ある藝術だけが、後世に殘つて傳へられる。
それ故に藝術の眞の評價は、それが新しく感じられる時期を去つて、やや古く、過去のものとして考へられる時代に移り、始めて
◇正鵠を得るのである。しかしてすべての善きものは、古くなるほど益[#挿絵]評價をたかめてくる。丁度ゴマカシやニセモノが、その反對の運命を負ふ如く。
明治以來、ずゐぶん多數の詩人と詩集とが現はれてゐる。しかし時代の變移を通じて、永遠に善いと思はれるやうなものは極めてすくない。尤も明治時代は、
◇我々のつい昨日であり、その時代の人々は、今日尚生きてゐるのであるから、今日我々の臆測するものは、不變に確實の評價でなくして、尚甚だアテにならない「今日の評價」にすぎない。實の正しい評價は、尚すくなくとも半世紀の時をへて生れるだらう。
しかしながら明治の評價は、すくなくとも大正(即ち只今)の評價よりも信がおける。只今、ごく
◇最近に續出する詩集については、ただ一時の場當り的價値を言ひ得るのみで、その實の眞價は何人にも不明であるが、明治時代のものに就いては、多少いくぶん確實に近い評價をもち得るだらう。
そこで明治以來、過去に出版された幾百の詩集の中、今日に至つて尚廢滅せず、永くその眞價を傳へてゐるものが數種ある。私の知る限りでは、次の詩集がそれである。
島崎藤村……全詩集中の詩大半
薄田泣菫……暮笛集・ゆく春
蒲原有明……春鳥集・獨絃哀歌
三木露風……廢園・白き手の獵人
北原白秋……邪宗門・思ひ出
(二重圈點◎を附したのは、特に名詩集たるもの。)
これらは何れも、千古
◇不滅の名詩集であると私は確信する。これらの詩集は、決…