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花幾年
はないくとせ
作品ID61678
著者折口 信夫
文字遣い新字新仮名
底本 「日本近代随筆選 2大地の声〔全3冊〕」 岩波文庫、岩波書店
2016(平成28)年5月17日
初出「旅 第二十一巻第四号」1947(昭和22)年4月
入力者深白
校正者持田和踏
公開 / 更新2024-02-11 / 2024-02-06
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

東京の春があらかた過ぎてから、ことしの花はどうだったかと思い出した年があった。自分だけかと思って、恥しいことだとひとりで赭くなって、誰にも言わなかった。五月近くなってから、「ことしの花は、どうだったけなあ」一人言い二人言い、言い出す人が、ちょいちょいあって、不覚人は、私ひとりでもなかったことを知った。併し痛切に感じたのは、やはり私位のものだろう。
その前年も、その亦前年の十八年の春も、花見る為に、わざわざ吉野山へ行ったほどであった。しみじみ吉野の花が見ておきたい。そんな気がこの五、六年来、春になると頻りにした。それで無理をしいしい、今言ったおととしの前年も、それから尚二年先も、何だか妙に憑かれたように大和路へ出かけたものだ。十九年の春などは、もう花見と言う世の中でもなかった。桜のいっぱい咲いて居る山の夕光の中に一人立って居ると、何だか自分があわれっぽくてならなかった。吉野の町の入り口の黒門まで来ると、土産物屋の亭主や、宿屋の若い者――そうでなくても、我々みたような遊山客相手に暮している人たちに違いない。それが道のまん中に立ちはだかって、一々通行人を咎めているのである。やれ捲き脚絆をつけて居ないことの、もんぺいの柄がだて過ぎることの、そんな立ち入った干渉をして居た。私は叱られはしなかったが、そんな小言を通りすがりに耳にして、腸の煮え返る気がした。
「冥加知らずめ」がなりつけてやりたい気をやっと圧えつけた程だった。誰が一体こんな事を言わすのだ。今のように事毎に責任者を想像して、何万人の怨みを背負わせる様にはなって居なかったが、あまり道知らずに、野方図になって行く世間がくちおしくてならなかった。世間知らぬ山の町の人たちだけではなかった。都も鄙もおしなべて、朝でも晩でも、何の権力もない人間が、善良な者の安穏な生活を、こじてまわる時代だった。
まあこう言う風に、花の木の下で、[#挿絵]次もないことで、旅人たちは、やまいづかされたものである。今思えばあんなに、花が見たかったのは、久しく生きては居まい、息のあるうちに、一度でも完全に眺めたことのない山の花を、心ゆくまで見ておこうという心が動いて、そうなったに違いない。
その前からも殆毎年と言ってよいほど、その五、六年というもの、春毎に山へ這入ったものである。今年こそ、咲きそろった花を、せめて中・上の千本に亘って見たいものだ。そう言う気で、前年の不足を、一度でとり返すつもりで行くものらしい。去年などは、永年住んだ大阪の家を失って、和泉と河内とに住み分れている弟たちを誘うて上ったものである。ところが何と、山はまだ早過ぎて下の千本が、半開という程度であった。この年とって家を離れた弟たちに、のびのびとした、併し何処までもしんとした山中で、静かなことの幸福を思わせようと望んでいた私の考えが、とりわけ駄目だったので、翌朝山を下って、私…

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