えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
![]() かげ |
|
作品ID | 64 |
---|---|
著者 | 芥川 竜之介 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「芥川龍之介全集4」 ちくま文庫、筑摩書房 1987(昭和62)年1月27日 |
初出 | 「改造」1920(大正9)年9月 |
入力者 | j.utiyama |
校正者 | もりみつじゅんじ |
公開 / 更新 | 1999-03-01 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 22 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
横浜。
日華洋行の主人陳彩は、机に背広の両肘を凭せて、火の消えた葉巻を啣えたまま、今日も堆い商用書類に、繁忙な眼を曝していた。
更紗の窓掛けを垂れた部屋の内には、不相変残暑の寂寞が、息苦しいくらい支配していた。その寂寞を破るものは、ニスの[#挿絵]のする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。
書類が一山片づいた後、陳はふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。
「私の家へかけてくれ給え。」
陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。
「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――房子かい?――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。――帰れないか?――とても汽車に間に合うまい。――じゃ頼むよ。――何? 医者に来て貰った?――それは神経衰弱に違いないさ。よろしい。さようなら。」
陳は受話器を元の位置に戻すと、なぜか顔を曇らせながら、肥った指に燐寸を摺って、啣えていた葉巻を吸い始めた。
……煙草の煙、草花の[#挿絵]、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧き上る調子外れのカルメンの音楽、――陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の麦酒を前にしながら、たった一人茫然と、卓に肘をついている。彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、煽風機も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。
女はまだ見た所、二十を越えてもいないらしい。それが壁へ貼った鏡を後に、絶えず鉛筆を動かしながら、忙しそうにビルを書いている。額の捲き毛、かすかな頬紅、それから地味な青磁色の半襟。――
陳は麦酒を飲み干すと、徐に大きな体を起して、帳場机の前へ歩み寄った。
「陳さん。いつ私に指環を買って下すって?」
女はこう云う間にも、依然として鉛筆を動かしている。
「その指環がなくなったら。」
陳は小銭を探りながら、女の指へ顋を向けた。そこにはすでに二年前から、延べの金の両端を抱かせた、約婚の指環が嵌っている。
「じゃ今夜買って頂戴。」
女は咄嗟に指環を抜くと、ビルと一しょに彼の前へ投げた。
「これは護身用の指環なのよ。」
カッフェの外のアスファルトには、涼しい夏の夜風が流れている。陳は人通りに交りながら、何度も町の空の星を仰いで見た。その星も皆今夜だけは、……
誰かの戸を叩く音が、一年後の現実へ陳彩の心を喚び返した。
「おはいり。」
その声がまだ消えない内に、ニスの[#挿絵]のする戸がそっと明くと、顔色の蒼白い書記の今西が、無気味なほど静にはいって来た。
「手紙が参りました。」
黙って頷いた陳の顔には、その上今西に一言も、口を開かせない不機嫌さがあった。今西は冷かに目礼すると、一通の封書を残したまま、また前のように音…