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![]() きょうどうじょのこい |
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作品ID | 986 |
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著者 | 岡本 かの子 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「岡本かの子全集 第一卷」 冬樹社 1974(昭和49)年9月15日 |
入力者 | 網迫 |
校正者 | 瀬戸さえ子 |
公開 / 更新 | 1999-02-06 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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――きちがひの女の兒に惚れられた話をしませう。
と詩人西原北春氏はこの詩人得意の「水花踊」などまだ始まらぬまだほんのほの/″\と酒の醉ひがまはりかけたばかりのところで――あれが始まるころはまつたく泥醉状態になつた西原氏なので――話し始めた。
支那の李太白らが醉つて名詩を作つたといふのはどれほどの醉ひに達したときか知りませんが、わが國の大詩人西原北春氏にありては、今北春氏が
――きちがひに惚れられた話をしませう。
と厚い童男のやうな唇にいくらか微笑をふくんでいひ出した程度の醉ひの状態が一番、この大詩人の詩的面目の躍如たる表現に適してゐることを私には斷言出來ます。――さきは九歳のこどもですよ。
――會社の重役のお孃さんですよ。
なんと驚いたでせう、といふ氣持ちを、すこしふら/\する手つきに出して西原氏はわれわれにこの話へのより多くの注意を促した。
――僕が目黒の競馬場の奧に棲んでゐたとき、あの邊は開けたばかりだから坂が非常に多かつた。
西原氏はそこでまた、一つ杯を取り上げ口へ運びながら私を上目で視て
――それ、あなたが、僕のあの家へ始めて尋ねて來たでせう、そして、僕んところへ持つて來るメロンを抱きながらあなたは坂を下つて來た。夕陽があまり綺麗だから、あなたは見惚れながらあの坂を降りて來た。すると、中途で石に下駄を奪られ、つまづく拍子にあなたの手に持つてゐたメロンが坂からころ/\ところげ落ちちまつた。あの下が谷でメロンがたうとう見つからなかつた、あの坂ね、あの坂のところで僕はそのお孃さんに見染められたんですよ。
私はその坂を覺えてゐる。
頂上の左右に二三の大邸宅を控へてゐる。雜木の小丘を截つて附けた坂としてはわたりが長く隨つて茅萱野草に掩はれた一方の崖下は深くて長かつた。西原氏がメロンの落ちた谷といつたのはその崖下だつた。左右の荒地、嶮岨に似ず、坂の表面はきめのこまかい赤土で小石が、いくらか散らばつただけの柔和な傾斜面だつた。
ころがせ、ころがせ、びいる樽とめて、とまらぬものならば赤い夕陽の、だら/\坂をころがせ、ころがせ、びいる樽。
西原氏は、嫌味のないさつぱりした調子で、あの坂でつくつた自作の童謠を口ずさみ、しみじみと愉快氣に童男型でありながらまた大人風をも備へた大兵の體を振つた。
――この謠をですね、醉つて私は唄ひながら、あの坂を降りて東京市内から自宅の方へ歸つたものですよ。さうですよ。朝か、晝ごろ出れば大がい夕方醉つて私は市内から歸るのでしたよ。
その西原氏を狂童女がどこから眺めて送迎してゐたものか、西原氏の市中へ出る途を擁してゐて、或朝、まだ醉つてゐない西原氏に一人の品の宜い初老位な奧樣風の女性が、坂の上の大邸宅の一つから出て來て立ち向つた。
――何とも御迷惑なことゝ、重々御察しいたしますが……。
と彼女は、幾度も幾度も、考へ拔いた上…